デザイナーは注文主と大衆のあいだで、板ばさみになった芸術家であると言ったのは瀧口修造である。 私は広告制作をしていく時にそれをいつも意識している。広告主が伝えたいポイント、時代を吸収している大衆に、どう料理していけば響くのかいつも考えている。それが、楽しくてしょうがない。
図案と言っていたのはデザインという外来語が来る前だったが、まさにデザインとは図の中にコピーとの共同作業で案を浮かび上がらせるものなのだ。私の場合でいえばそれは人と人の話を聞く事からいつも始めている。相手の大衆の具体的な声が、その都度の打ち合わせで用意されていなくとも、僕個人を離れて大衆になりすました気持ちでクライアントの意見を聞く事がよくある。自分がデザイナーであるというおごりがあればあるほど、技術的なコテ先に終始してしまい、コミュニケーションの代表として機能しなくなるからだ。
僕はクライアントの打ち合わせの時、イタコのようにクライアントの頭の中に入っていったり、受け手側を想定しその人になりきったり、自分という本来のデザイナーに戻ったりと、スタンスを変えるよう気持ちを集中する事にしている。
また、そのテーマの部分をzoom inして、毛穴まで見えるようにイメージングし、また、同一テーマを猛スピードでzoom outし、国をこえ地球サイズまで、引いて考えてみる事をする。そのミクロとマクロの世界とイタコとを組み合わせ、ミーティングに一時間参加すると、結構エネルギーを使う。
そして作業をする前には、ほぼいくつかDirectionの方向が見えている。そこにその他、援護してもらえる要素はないか、組み合わせはないかと、スパイラル的な円循環で考えている。そこに、Technologyや、マーケティングシステムや、大手代理店に牛耳られてしまったメディアの他の開かれたメディア、Webなども神経細胞のように組み合わせられるか考える。それ自体、もしくはその全行程が、デザイナーの仕事だと思う。
これから、単純なグラフィックデザインという職務は小さくなり、
デザインという言葉はもっと拡大縮尺した場所を欲しがってゆくと思う。
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